僕は大人が嫌いだ
いちえいは、来年から働く大学院生です。
もう十分大人なはずですし、自覚をもって社会人として行動しなくてはいけないはずです。きっと。
が、僕は大人が嫌いです。
僕の大人像って
・「仕方ない」と言って現状を受け入れている
・なんでも言い訳
・「やってみないとわからない」と言うその場しのぎ
・過去の栄光の自慢
・自分が一番輝いていた時から進歩していない
・つまんなそう
・変な体裁とかを気にする
って感じ。
絶対、嫌。
本当に、マジでなにかをやっている大人って圧倒的に少ないと思うんだけどどうだろうかね
僕は、
・ひとつの事をアホみたいに取り組む
・馬鹿なことをして笑う
・気とか使わない
大人になりたいね
こんなとこです
「あり得ない」って何?
先日、ちょっとした事で普段行かないスーパーに入りました。
「へぇー、こんなとこにスーパーなんてあったんだ」
って感じでふら~と。
入ってみたらびっくり!
やたら高い。
初めてのお店に入ると、
なんでも値段が気になってしまって、ひと通りの日用品の値段を見ちゃうのですが、
全部高い。
例えばですが、バナナがビニールの袋に一本一本入っていて一本198円。
高!(房からとってビニールに入れるコストいくらだよ)
お肉も、一番安い鶏肉で100グラム208円。
高!(胸肉なのに)
ふと、周囲をみるとなんか店員さんも小奇麗な格好をしている。
なんか、「どこの家政婦ですか?」と突っ込みみたくなるシャレた服装をしているわけです。
マジか~
どうしよ~
と思っていたのですが、
なにも買わずに出るのもあれなので、この店にしかなさそうなものを買って帰ろうと思い、スーパーの中をぐるぐる。
見つけたのは、「特製プリン」!
お値段298円。(ここスーパーですよ!)
最近良い事ないから、特製プリン食べて幸せな気分になろうとレジを待っていると
6歳くらいの子供が、店員さんに向かって
「オーガニックの納豆ください」
って言っているのを目撃。
あり得ね~
まず、納豆にオーガニックがある事にびっくりだし、
6歳くらいの子供がこのスーパー(おそらく超高級)に一人でいる事もびっくり。
さらに、普通に対応している店員さんにもびっくり。
あり得ね~。
理解できね~。
と思って、
プリンだけ買って帰ったのですが、
帰り途中に「こんな体験久しぶりにしたなぁ」といった変な満足感と
この「あり得ね~」って感情って一体どういう感情なのかといった変な疑問が湧いちゃったわけです。
あり得ないと思った事は間違いないのですが、僕があり得ないと思った事は実際あり得ているのです。そこに対する疑問・モヤモヤ感と、この感情って僕にとって良い感情なのか悪い感情なのかといった疑問が、ふつふつと湧いてきてしまいました。
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なので、色々と考えてみました。
「あり得ない」という感情は、
「人には日頃から想定している出来事があり、それとは全くかけ離れておりかつ瞬時に理解できない出来事が起きた時に生じる感情。この感情は嬉しいとか悲しいとかいった感情ではない。」
かなと。
僕の中では、
バナナが一本一本袋詰めで売られている事は想定できなかったし、鶏肉がやたら高いのも想定できていません。6歳の子供に口から「オーガニックな納豆」って単語が出てくる事も想定外です。
だからと言ってバナナがやたら高い事も、6歳の子供に口から「オーガニックな納豆」って単語が出てくる事も悪い事ではありません。僕が想定できずかつなぜそんな出来事・状況が起きているのか理解できないだけです。
もっとも、僕はこのスーパーの利用者に「お金持ちでいいなぁ~」といった嫉妬心もなければ、このスーパーに「また来たい」と思う事もないですし、
起きた出来事が、想定できておらず、かつ瞬時に理解できなかっただけす。
ただ、この「あり得ない」って感情が久々だったのです。
この体験とこの「あり得ない」という感情の考察によって気づいた事があります。
あ、案外、色々な事を想定して生きてるんだな。自分。
と。
僕は自分で変人である自信がありますし(なんだその自信)、
マジョリティよりマイノリティの方が優位であると本気で思っています。
一方で、どんな変人も許容できると思っています。
(もし、自分が変人を許容しないと、自分は絶対に他者から許容されないと思っているため)
けれども
「僕はあまりにも多くの事を想定して生きているんだな」と実感してしまいました。
(スーパーに行っただけなのに、こんなに「あり得ない」と思うなんて)
色々な事を想定して、それ以外の事を排除して生きていくのって楽かもしれないですが、「それってどうなの?」って改めて思ってしまいました。
いろーんな事に首を突っ込んで、いろーんな経験して、いろーんな人としゃべって、
「へぇ~、世の中にはこんな奴がいるんだ、こんな考え方もあるんだ~。超おもしれ~。」
って思いながら生きていくのが絶対楽しいかなと。
だから、僕の中では「あり得ない」って感情は「あり得ない」にしようと。
全く理解できない事があっても、その場で考えればなんかわかるはずですし。
「世の中、超おもしれ~」って思うために、
まだまだいろんな事に首突っ込んでみよ!
(最近、物理学の勉強を本気でしてみたいです。ナビエ・ストークス方程式とか。
なんか良い本教えてください!)
こんなとこです。
そんじゃーね!
僕はこんな奴と一緒にいたい
以前、
圧倒的に凄い人の特徴 とこの人馬鹿だなと思う人の特徴 は書きました。
いちえいが一緒にいたいと思う奴の特徴を書いておきます。
・変人
・自分の考えを言える
・議論できる
・専門分野を持っている
・視野が広く、好奇心が旺盛
・実際自分が動いて何かしている
・頭が切れる
・最低限の気を使える
・それは普通は人にはいわないだろうって事いう
・悩んでいる、もしくは考えている事がある
・本読む
こう書くと全部自分の特徴なんじゃないかと思うが、
・変人
うん。間違いない。そう。
・自分の考えを言える
言えるね。教授に言ってキレられたけど。
・議論できる
できるかどうか知らんが、好き。
・専門分野を持っている
あやしい・・・。
・視野が広く、好奇心が旺盛
明日は、Wカップの組み合わせ抽選会♪
・実際自分が動いて何かしている
これも、あやしい・・・。
・頭が切れる
知らん。
・最低限の気を使える
できない。できるようになろう。
・それは普通は人にはいわないだろうって事いう
まぁ、そうか。
・悩んでいる、もしくは考えている事がある
うん、最近メンヘラの意味を実体験に基づいてようやく理解した。
・本読む
これは、そう。
みんさん、どうでしょう?
こんなとこです。
テストってなんのためにあんの?
前に、偏差値教育についてエントリーを書きました。
(こちら 偏差値教育って・・・。 )
こういうのを番組を見て、偏差値教育はダメでそうじゃない創造性を育む教育はいいんだとかいった極端な言論を良く目にするが、それもどうかと思うわけです。
偏差値教育を考える上ではテストの役割とかテストそのものについて考える必要があると思うんです。(ペーパーテストのことね。)
なぜ、学校にテストがあるのか?
これって、教育学やる上で超簡単な基本的事項だと勝手にいちえいは思ってますが、案外みんな知らないのかなと思うので書いておきます。
単純に、
「先生が自分の伝えたい事、授業でやった事をちゃんと生徒が理解しているか確認するため」です。
別に子供の能力を計るためにやっているわけではありません。
少なくとも、学校の定期テストは間違いなくそうです。
今まで、いちえいは平均点が17点だった高校のテストの話とか(もちろん満点は100点)赤点ではない生徒がクラスで2人しかいなくて先生が激怒したとかいった話は何回も聞いてきましたが、いちえいが先生ならきっとショックで学校休みます。
先生は先生である限り、生徒にある情報を伝えなければいけません。世の中には伝えない限り伝わらない情報があるんです。
(もっとも簡単な例は英語。おそらく5文型すらわからなくても生きてはいけます。が、伝えた方が良いに決まっています。)
その情報を生徒がしっかり受け止めてくれているか、理解してくれているかを計るのがテストです。だから、テストは存在するのです。
仮になかったとすると、先生は一体何を自分の授業の評価にしていいかわかりません。先生がしっかりとした授業をするためにテストは存在するのです。
絶対そうです。
(ここに書いた事は全部教育実習にいった時に肌で感じた事であり、実際に自分で授業をしてみるとよーくわかります。)
こうだと考えると、テストって必要でしょ。
少なくとも、学校の中では。
こんなとこです。
大学での勉強について僕はこうだと思いたい
偏差値教育って・・・。
昨日の夜9時からで放送された、茂木先生の「全力教室」を観て結構色々な事を思ったので、書いておきたい。
いちえいの基本スペック。
理系の大学院生、数学の教職を持っている。(教育に関して全く無知というわけではない)東大生ではないが、東大生は周りにたくさんいる。
以上を前提にお読みください。
まず、
「偏差値教育は諸悪の根源だ」
はい。その通り。全く異論はありません。
いちえいは馬鹿だったので東大には行けず、それより偏差値の低い大学に行きました。
(「馬鹿だったので東大には行けず」ってのは偏差値教育の考えを元にしているからそもそもお前の言論は矛盾しているとかいった突っ込みはとりあえずスルー)
けど、そこで思ったのは「なんで最高の研究教育機関で勉強したいと思っている学生を勉強させてくれないのだろうか」って事。
圧倒的に、東大は他の大学よりにも研究機関として優れています。それはほぼ間違いありません。(いちえい的には)
「あー、なんでこんな大学受験とかいったシステムが社会にあんのかねー」って思ったのが、教育学を勉強するに最初の動機。結果、免許取ってしまった。(免許を取った事自体は全く後悔してないし、超良かったと思っているが、教員にはなりません。)
それで、色々勉強してきたつもりだが、「偏差値教育はダメだ」論の問題点は主に2点あると思っていて、
1つ目、まず偏差値ってなにか?偏差値教育とはなにか?
これが不明確である点
2つ目、これはダメだとすると、一体なには良くてその良い状態にもっていくには何が必要か?できるか?
かなと。
いきなりですが、
「偏差値ってテストの点の分布を正規分布であると仮定しているからおかしな指標だ」
これの文の意味をちゃんと理解できる人は一体日本に何人いるのでしょうか?
そもそもだが、「偏差値50が平均である」は一般に理解されているのか?
とか超基本的なとこにいちえい的には疑問を持っていまします。
この番組を観ていても「偏差値、偏差値」って何回も言われていたが、一体「偏差値」の意味をわかっているのか、結構疑問。
偏差値の基本的理解と偏差値教育の基本的理解は異なる可能性もあって、偏差値が何かをわかっていなくても、偏差値教育がわかっていれば問題のかもしれないが、そもそも「偏差値教育」って何でしょうか。
「得点を上から順に並べて、テストの点数で良い人を取る受験制度を主とした教育制度」
こんなとこかな。
では、
「能力を測定して上から順に並べて、能力の高い人を取る受験制度」
と一体何が違うのでしょうか?
番組中も結構言われていたが、テストの点は客観的であるって話。
これを完全には否定することも肯定することもできないかなと。
テストの点を中心に受験制度を組み立てているのは、人間の能力なんてものは客観的に測れないからですよね。きっと。測れない中で、もっとも客観的そうなのが、テストの点。だから、こういう制度になっていると。
こう考えると全く間違った制度ではないかなと。少なくとも、昔は。
昔はとにかく作れば売れたから、効率良くものを作れるようにすればよかった。だから、処理能力が大切だったと。
けど、今は違う。
良いものを作らなければいけないから、イノベーションできる能力が必要だ。
だから、偏差値教育はダメだ。
まぁ、当たり前かなと。
だから、僕も「偏差値教育はダメだ」と思います。今は。
けれども、引っかかるのは学校の先生は少なくとも「偏差値教育は良い」とはだれ一人として思っていないって事。偏差値教育そのものはきっと、予備校とかが作りだした概念なんだろうね。それを今の教育はダメだとか、今の学校はダメだとかいうのはちょっと違う気がするんだよね。いちえいは。
(教育実習に行って授業やる上で、もっとも考えたのは「どうやったら、生徒の視野を広げれるか」、「どうやったら生徒の好奇心を刺激できるか」って事でした。そんなに簡単ではないけど頑張ったつもりです。)
ま、偏差値教育は現代には合わないわな。はい。
続いて2点目。
じゃあ、何が良いか?そのために何をすべきか?
創造力を育む教育が良いとか、チャレンジに対して寛容な教育が良いとか、色々あると思うんですが、いちえいが最も気になってしまうのはメディアでこれらを言っているのは「成功者だけ」じゃないですかって事。茂木先生もそう。大前研一氏とかも偏差値教育はダメって言っているが、いちえい的には彼ら成功者でもうお金の心配とかをする必要がない人だと思うわけです。だからこそ、好き勝手な事を言えるのではないかと。
普通の人は一生懸命勉強してちゃんと大学に入って一流企業に就職する事が良い事だと思ってますよ。だって、これで普通に生きるのには困らないもん。
だからこそ、偏差値教育ってなくならないと思うんです。
けど、彼らは人とは少し違ってこのルートを通らずに一流になったわけです。(しかも彼らは20代後半まで大学にいれた超恵まれた人。)
だから、偏差値教育はダメだと言っていると。
これに対して反論できんのかと、いちえいは思ってしまいます。
(きっと彼らは、「世界はこう」っていうのだろうけど、「世界と日本は違って、世界が必ずしも良いとは限らないでしょ」って思うけど。)
いちえい的な結論は、一体何が良いかなんてわかんないから個人がそれぞれ自分の信念に従って主張すればってこと。その信念に向かって行動すればいいんじゃね?
って思います。
はい。
因みに、いちえいの人生で成し遂げたい事はこちら
http://ichiei.hatenablog.com/entry/2013/10/11/210532
いちえいは、散々考えた結果とりあえずは大企業に就職します。
修行です。
他にも書きたい事がたくさんありますが、こんなとこです。